1210年|4月 5月

2009年05月15日

修明門院について

藤原重子(ふじわら の しげこ/じゅうし。1182年〜1264年)。高倉重子とも。
後鳥羽天皇(1180年〜1239年)の後宮で、順徳天皇・雅成親王・寛成親王(尊快入道親王)の生母。

建久8年(1197年)16歳で守平親王(後の順徳天皇)を産み、その後も皇子2人を産む。
承元元年(1207年)25歳のとき、准三宮になり、さらに女院号の宣下を受けて修明門院と称した。
承元4年(1210年)29歳のとき、守平親王は順徳天皇として即位し、重子も国母となった。

修明門院が初めての熊野御幸に出発したのは承元4年4月21日。
順徳天皇が即位したのは承元4年11月25日。

修明門院の熊野御幸の回数は11度。
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2025年02月13日

稲荷

十二日、己亥(つちのとい、きがい)、天気晴れ。
権弁が先陣して稲荷に参る。御奉幣事のための指示や供えとのこと。
予は御所に参る。人々は遅れて参り、催しに加わる。

日の出以後数刻の後、出御がある。信能朝臣・予は先駆け。巳の一点(※午前9時頃※)に稲荷社に御着きになる〔御迎えの人々が済々と(※多くて盛んなさま※)会に集まる〕。
鳥居の内において御禊がある。
権弁が幣を持って立ち、少将・予は御あがない物を役送する(※取り次ぐ※)。
次に宝前に御参り。御奉幣。神主が祝詞を奏上する。賽祓のとき杉の葉を進める。御先達がこれを進める。
主典代が禄をお与えになる。次に御経供養がある。
この間、予は逐電する。私的な奉幣。護法送りの後、杉の葉を腰につけて帰ってくる。すぐに御布施を引かされる。

御導師 被物1色、宰相中将がこれを取る。裏物、信能朝臣がこれを取る。
題名僧(※だいみょうそう。経供養のときなどに経文の題目を読み上げる僧※) 裏物〔予がこれを取る〕。


次に命婦の御前に御参り。御奉幣以後に鳥居内の小社の前に御参り。護法送りのためである。御奉幣の後、入御。御車を御所に寄せる〔几帳(※きちょう。間仕切り※)を出し、御屏風を設け、命婦の西廊の後ろ西面の妻戸為其所〕。
次に源大納言が直衣(※のうし。公卿の平常服※)で進み出て、御車を寄せる。公卿・殿上人、束帯・直衣・布衣各有之、
道の御供の人々はここより逐電。窮屈の間、早くもって退出。詳しく見及ばない。

   今度の御供の人数
 修明門院御幸人数
御先達〔大僧正〕 御導師〔大納言僧都 隆円〕
女房六人〔民部卿殿 大納言殿 丹後殿 宮内卿殿 大輔殿 出雲殿 以上常御所女房〕
雑仕一人 小雑仕一人 女官一人 刀自(※雑役を勤めた女官※)一人
公卿〔民部卿 源宰相中将〕
殿上人〔一条少将 信能 権弁 宗行 藤少納言 頼|〕
上北面〔木工権頭清実 大隈守康業 左馬権頭忠綱 左近大夫信経 蔵人康定〕
下北面〔隼人正成重 壱岐左衛門尉久政 主馬○(首脱か)左衛門尉秀能
西面〔源二兵衛尉 新藤兵衛尉景家 糟屋三郎有久
医師〔侍医基成〕 陰陽師〔陰陽権助晴光〕
主典代1人 庁官4人 庁守1人
召使8人 召次15人〔御壺召次1人、交召次4人・国召次10人、〕
□取1人 御力者18人 次御輿御力者36人
(進物所)番衆6人 大炊2人 □原1人
進物所召次1人 釜殿6人 里神楽6人
 院号以後初度の御幸を為すにより、今度用いられ晴儀、前宮内少輔越茂奉行、


夜に入って御所番を為すため、宿に参る。
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2025年02月13日

本宮を進発

七日、甲午(きのえうま、こうご)、天気晴れ。
早朝に御前に御参り。東戸において奈木の葉・大豆粉・牛王を進める。予は御輿の前にお仕えする。

次に湯川で例のごとく昼御養。次に近露に着く。予宿侍。
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2025年02月13日

本宮へ

六日、癸巳(みずのとみ、きし)、天気晴れ。
早朝に宝前に御参り。御着きになる間に、那智での儀式のように、門の下において奈木の葉牛王を進める。
次に御乗船。楊枝河原で昼御養、謂えども用意無入御。
未の刻(※午後2時頃※)に本宮に御着きになる。宝前に御参り。次に御所に入御。
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2025年02月13日

新宮へ

五日、壬辰(みずのえたつ、じんしん)。
早朝に宝前に御参り。牛王奈木の葉を進める〔御先達が進める、御輿に入御、宝印を捺す〕。お還りになる〔人々は化粧あり〕。

佐野で昼御養がある。
新宮に御着きになる。今日は五月会である。よって河原において仮屋を構え神殿とする。杉の葉をもって葺いて幕を引き回す。神供を供える。依為魚味仮この儀式があるとのこと。八女など成群。
御先達が申されて言うことには、「御幸を待っていまだ神供を供えていない、河原に行きなさい」とのこと。よって昇り奉って御輿に居る。
人々はつつしんでお仕えする。祢宜が神酒を献ずる。御先達がこれを取って御輿に進み入る。御飲みになったか。すぐに出られる。次に御輿に順番に進む〔上北面、進み入る〕。次に人々が御盃を給う。これを飲み下す。

次に八女が袖を翻す。御先達が扇をお与えになる。次に宝前に御参りして、御所に御下がりになる。
夜に入ってまた宝前に御参り。次に礼殿御所に御参り。御加持があり、布施をお与えになる。次に乱舞の事がある。
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2025年02月13日

那智

四日、辛卯(かのとう、しんぼう)、天気晴れ。
早朝に宝前に御参りした後、那智の御山へ御幸〔公卿以下騎馬で先駆け〕。

次に阿須賀王子(※阿須賀神社※)に御参りし、御奉幣がある。祢宜が祝詞を奏上する〔衣冠(※いかん。束帯に次ぐ正装。束帯から下襲(したがさね)と石帯をはぶき、表袴(うえのはかま)と指貫(さしぬき)にかえた活動的な服装※)〕。主典代が禄をお与えになる。御正体を祢宜が懸け奉る。御経供養・御神楽は日頃のよう。

次に高蔵王子〔紀伊湊〕に御参り。
次に佐野で昼御養事がある。次に佐野王子に御参り。次に一乃野(※市野々王子※)、次に道祖神、次に那智に御着きになる。

まず滝下に御参り〔拝殿において御輿に居て昇り奉る。信能朝臣らがこれにお仕えする〕。御奉幣・御経供養は例のごとし〔道すがら御導師が布施をお与えになる。殿上人がこれを取る〕。道すがら御正体・絵馬・八女など残りの分がここで献上される。
次に千手堂に御参り。まず御誦経がある〔寺の僧が御導師を勤める〕。予は一裏を給う。次に御加持があり〔山籠30口〕、布施をお与えになる〔布5反・一裏、白い美しい布である。予らがこれを取る〕。次に御参宮。次に御所に御着きになる。


次に夜に入って御奉幣がある。その儀式は新宮のよう。ただし飛滝権現の御幣を取りそろえる。
証誠殿で御奉幣がある。次に礼殿御所に入御。御明以下儀式の順番は本宮や新宮のよう。よってこれを略する。

執行の禄は予が取る。僧供の事は礼のごとし。供物が少なかったので御先達はことに傷つけられ申すか。15果積む。じつにもって不便不便(※ふびん。具合が悪いこと、そのさま※)。
験競べ・乱舞は本宮のよう。方延年の遊がある。上下の僧徒がこれを準備する。
事が終わって御所に御下がりになる。
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2025年02月13日

新宮

三日、庚寅(かのえとら、こういん)、天気晴れ。
早朝に御宝前に参った後、御船にお乗りになる〔御船を寄せることは、別当が指図したのか。引き幕を用意し、仮に御船の辺りを引き廻される〕。御先達は御船に参られない。

次の船は小さな屋形を構える。
女房の御船が2艘、同じく小さな屋形がある。

雑人が順番に乗船し先陣。
公卿・殿上人は一人一人私の船を用いる。

楊枝河原で昼御養。入御はない。

午の初め(※午前11時頃※)に新宮に御着きになる。
御輿に御乗りになり、すぐに御参宮。次に御所に御着きになる。
予は宿所を退出して、すぐに参宮・奉幣。この御山の師の小松法橋はすぐに兼ね行う。予は奉幣・経供養以後退出。

御所に参り、夜に入って御奉幣がある。事ごとに本宮のよう。ただし出御のとき御禊はない。お供の人々は奉幣衣裳である。
また若宮殿の御前、一万十万の御前で、併せて取り合い、御奉幣がある〔御輿は本宮での儀式のよう〕。事が終わって礼殿御所に入御。

御明布施〔信能朝臣がこれを取る〕、御誦経〔予がこれを取る
御経供養〔宰相中将がこれを取る〕、御神楽の禄〔庁官がこれをお与えになる〕、
御加持布施〔予らがこれを取る〕、別当の禄〔信能がこれを取る〕、
次に御鉢五口〔御先達がこれを取る。本宮のように簾の下に参る。ただし祢宜は浄衣を差し置く役である〕、次に僧供を引く〔御所に御下がりになる〕。


今日、明日の伝馬のことを重く加え催す。僧綱以下これを進める。公卿・殿上人は庁より伝馬をくださらない。また船がなくその指図をする。七条院の御幸は、殿上人がこれを給うとのこと。良し悪しはどうだろうか。
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2025年02月13日

本宮2日め

二日、己丑(つちのとうし、きちゅう)、天気晴れ。
尋常の浄衣を着て御所に参る。
権弁が礼殿において僧供事を行なう〔昨夜許分なお指図を致した。芝僧供には及ばない〕。
予は終日、御所にお仕えする。明日の御船のことは権弁が指図致す。行事庁官奔走。御山の僧綱以下可然輩も皆宛召された者である。

夜に入って御宝前に参る〔御先達が参入の後に出御がある。予らは例のごとく松明を取る〕。礼殿御所に入御の後、まず御鉢を供えられる。次に僧徒の験競べがあり、五番の後、また八女の風流を用意する。神楽があり、次に乱舞。御先達・公卿・殿上人以下同じく乱舞がある。事が終わって御所に御幸。
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2025年02月13日

本宮

五月一日、戊子(※つちのえね・ぼし※)。
朝、御浴・御拝・御禊。終わって出御。
王子(※近露王子※)に参御。
次に檜曽原・継桜・中川など王子を例のごとく御参。
次に熊瀬川で昼御養〔別当(※※)が同じくこれを設けたのか〕。次に出御し、石神王子に御参。次に湯川御所に着御し御昼養がある。臨時の御浴・御禊などがある。
人々は臨時の浴をなし、めいめいに宿所を退出。

しばらくして皆が帰参し、次いで出御。湯川王子に参御。次に猪鼻王子。次に発心門において御禊があり、同王子(※発心門王子※)は杖を献御される。御笠と四手(※しで。玉串や注連縄などに下げる紙※)を同じくこれ(※杖※)に付ける。
各々の私の先達が杖を授ける。

御奉幣以下の事が終わって、御先達が金剛杖を進められる。〔源宰相中将がこれを取り、御輿に進み入り、すぐに(※院は※)お返しになる。御先達が直に進み入るべきか。その後、宰相中将にお預けになるべきとのこと。但し両説か。不審〕
次に出御。次に内水飲において御小養を設ける〔湛政法印がこれを設ける〕。次に同王子(※内水飲王子。後に水呑王子※)に参御。加津江坂を御歩きになる。

予らは先行して、祓戸王子辺の小堂において聊か事に宜しい(※適切な※)浄衣を着る。
王子に参り、御幸を待ち奉る。人々は皆ことごとくつつしんで仕える。

ここより神宝以下行列〔行事院司・庁官が御養所から前行してこれを行くとのこと。ただこの度はそうではない。御歩きのとき自然に遅々となるためか。もっとも可理〕。祓戸王子に参御の後、ここにおいて御禊がある。〔大麻で、まず神宝を撫で、庁官役之後、信能朝臣に授けて、本宮の方に向かわせなさる〕


次に本宮に参御、行列。

まず神宝。次に御先達。次に公卿・殿上人。
次に御輿。次に上北面。次に女房輿3張。
次に歩いて行く女房〔下北面の輩がこれに付き添う〕。


まず御装束を改めずに御参宮〔神宝は油戸に入らない。回廊の外から庁屋に付ける〕。御路は東の回廊の外に沿って参御。証誠殿門から御輿のまま入御。上北面の輩4人がこれに昇り奉る〔あるいは、ここから御輿を御下りになる。また例である。このとき殿上人は御牟志を進める〕。この間、別当は雑人を払い下がらせる。
順番に御巡礼の後、一万十万前の戸から御退出させられる〔御輿を御下りしているときは御輿を楼門の下に準備する。ここから御乗りになるためである〕。
御所に着御。御浴水がある。
音無河近代熊乃川とのこと。

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2025年02月13日

滝尻・近露で水浴

三十日、丁亥(ひのとい、ていがい)、朝の間、雨が降る。午後は天気晴れ。
朝御浴・御拝・御禊。終わって出御〔このとき辰の初めである〕。

滝尻において臨時の御浴がある。よって仮に御所に入御する。予らは一昨日真奈子宿において浴した。よってこれを略す。
次に滝尻王子において御奉幣。終わって例のごとく下がる(但し八女少々袖を翻し、禄物は及ばずか、尋ねるべき記す)。公卿は終わって下がり先陣。雑人はまた追い立てられる。御歩きのためだ。

予らは先行。木根坂において進物を上げる所に小さな屋形を構える。御小養事がある(御輿入御の以前に予らは飢えを補った)。次に重点原において御所を構える。御昼養事がある(御儲人は尋ねるべき記す。但し別当行詮がこれを儲けるか)。ほどなく出御し子(※重点王子※)に御参。次に大坂本王子を御参、例のごとし。申の初め(※午後3時ころ※)に近露御宿に着御。

 臨時の御浴水・御禊などがある。夕方、御浴・御拝。また例のごとし。
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